(前編)新宿~品川 からの続き →
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22:28 鮫洲
日本橋から10 kmの地点までやって来ました。
月に雲がかかったところで、
鈴ヶ森刑場跡に着きました。
名前のとおり、江戸時代に罪人を処刑していた場所です。
これから江戸に入ろうとする人々に警告を与える目的で、この場所に刑場が設けられたと言われています。
ところで、品川からここまで国道15号は、旧東海道の数ブロック横を通っていました。
鈴ヶ森刑場は2つの道の合流点となっています。
こちらが本来の東海道。幕府は街道の幅を5間≒9mと定めて整備しました。
自動車のない時代には、これで十分な道幅だったのでしょう。
大森を通過。
1877年、エドワード・モースが列車の窓から貝塚(大森貝塚)を発見したことで有名です。
平和島では、おそらく環状七号線と交差する関係で、再び旧東海道と国道15号が分岐します。
「23区内を環状に廻る一般道としては...最も外側に位置する(Wikipediaより)」道路だということです。
蒲田。
ここからは、羽田空港に向かう線路・道路が分岐していきます。
蒲田からしばらく進むと、気になる美容室が。
その名も「ルート1」。
.........ここは国道15号。ルート15です。この美容室はなぜ、「国道1号」を意味する名前を名乗っているのでしょうか?
実はこの道、明治時代には「國道壹號」と呼ばれていました(現在も「一国」という通称が残っています)。1885年の「國道表」では、「東京ヨリ横濱ニ達スル路線」と定められています。なお現在の国道1号は、当時の「國道貳號」(同大坂港ニ達スル路線)にあたっています。
そんな背景があって、この美容室は「國道壹號」の意味で「ルート1」を名乗っているのだと考えられます。
そんなものを眺めながら先に進むと、「六郷の渡し跡」(現在の六郷橋)にたどり着きます。
多摩川を渡り、いよいよ東京都を脱出していきます。
いつもは鉄道で渡る多摩川を、今晩は徒歩で越えていきます。
神奈川県川崎市に入ります。
渡りきったところの親柱には、舟のモニュメントが設置されています。
1688年(貞享5年)から1874年(明治7年)までの間、この場所には橋がなく、旅人は船に乗って行き来していました。それを記念した意匠です。
「ヒュン!」と鳴る音に振り返ると、釣り人の姿。
ここからは親切な案内板に従って、国道15号を離れ、旧東海道・川崎宿へと進んでいきます。
国道をくぐって、
「ようこそ 川崎宿へ」。
古い建物などは残っていませんが、たくさんの解説板や浮世絵に迎えられます。
丸形のポストも良い雰囲気です。
街路樹にはそれぞれ風鈴が吊り下げられ、涼し気な音を響かせています。
風鈴の音を楽しんでいるとキャバクラの客引きにつかまるあたり、非常に川崎です。
旧川崎宿を抜けたところが、八丁畷(はっちょうなわて)。8丁(約870 m)にわたって、街道は田んぼの真ん中を通り抜けていました。
この場所ではたくさんの人骨が発見されており、災害で亡くなった人々を町外れに埋葬していたのだと考えられています。
お月さまを正面に見て、静かな住宅地を通り抜けていきます。
歩道がなくなりました。
一里塚の跡を発見。名前のとおり、1里(約4km)ごとに設置された塚です。
過去記事に写真がありますが、塚には榎の木が植えられ、旅人は木陰で休むことができました。
一里塚跡の横にはベンチがありました。
ありがたく、ここで休息させてもらいます。
数分の休憩を終えて、鶴見に向かっていきます。
鶴見川を超えるところでは、旧街道にふさわしい立派な橋を渡ります。
鶴見駅。
夜の商店街を抜けていきます。
しばらくすると旧東海道は国道15号を横切り、両者の位置関係が逆転します。
引き続いて、JR鶴見線と交差。
鶴見線国道駅の高架下は、1930年の開業当時の面影を残しています。
旧東海道は生麦に向かっていきます。
道幅がやけに広い...
と思ったら、途中から狭くなりました。
自販機でさんぴん茶を発見。これは買わなければなりません。
この一帯の自販機、なぜだか沖縄の飲料が充実していました。
生麦事件発生現場に到着。民家の塀に、解説板が取り付けられています。
...というより、発生現場にはこれしかありません。
1862年、この場所で、英国人4名が薩摩藩の大名行列に乗り入れてしまい、藩士に斬られ死傷したのでした。
この先、街道の脇にはキリンビールの工場が広がっています。横浜の外国人居留地に設立された、日本最初のビール醸造所に起源をもつ会社です(生麦の工場は1926年完成)。
それなりの距離(900 mくらい)を歩いていくと...
キリンビールの敷地に食い込むようにして、「生麦事件碑」が。
この地点は、事件で亡くなったチャールズ・リチャードソンの落馬した場所なのだそうです。深手を負いながら、先ほどの「発生現場」からここまで逃げてきたということでしょうか。
中村敬宇による碑文に曰く(抜粋)、
君此の海壖(かいぜん)に流血すこの事件が薩英戦争を引き起こし、日本の急速な近代化を招いたのでした。
我邦の変進も亦其れを源とす
強藩起って王室振るう
耳目新たに民権を唱う